私の好きな「国際派日本人養成講座」の中の歴史教科書読み比べ(10)を
転載させていただきます。
平成25年のものでちょっと古いのですが、当会では歴史教科書の読み比べを
やっている所なのでここに転載させていただきました。(内容に少しも古さは
ありません)
■■ Japan On the Globe(808) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
歴史教科書読み比べ(10) : 白村江の戦い
老女帝から防人まで、祖国防衛に尽くした先人の思い。
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■1.「日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた」
663年の白村江(はくすきのえ)の戦いは、古代日本のその後の進路を
大きく変えた出来事だった。自由社版の歴史教科書は「白村江の戦いと国
防の備え」と題した1節を設け、こう書く。
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7世紀のなかば、朝鮮(ちょうせん)半島では新羅(しらぎ)が唐(とう)
と結んで百済(くだら)を滅亡させた。日本と300年の親交がある百済が滅び、
半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった。
そこで、百済を復興するための救援要請を受けた朝廷は、多くの兵と物資を
送った。唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西部の白村江で行われ、
2日間の壮烈な戦いののち、日本・百済側の大敗北に終わった(白村江の戦い)。
日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた。次いで、新羅は
高句麗もほろぼし、朝鮮半島を統一した。[1,p56]
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「日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた」とは
『旧唐書』での記述をもとにしているが、印象的な光景である。
■2.東書版の2つの違い
この白村江の戦いについて、東京書籍版はわずか5行で済ませている。
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朝鮮半島では、新羅(シルラ、しらぎ)が唐(とう)と結んで百済(ペク
チュ、くだら)や高句麗(コグリョ、こうくり)をほろぼしました。日本は
百済を助けるために大軍を送りましたが、新羅・唐の連合軍に敗れました
(白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い)。その後、新羅は、唐の
軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました。[2,p34]
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シルラ、ペクチュ、コグリョと半島諸国には朝鮮語の読み仮名を振り、
唐は日本語読みにしているのは、あいかわらずの二重基準、半島向けおべっ
かである。[a,b]
しかし、それ以外にも、この短い記述で、自由社版とは大きな違いがある。
第1は、東書版では「日本にとっても脅威」という視点がまったくないこと。
第2に、「新羅は、唐の軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました」という
記述を加えていること。
以下、この2点を考えてみたい。
■3.「半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった」
大和朝廷の出兵動機は明確だった。第一に300年ものよしみのある百済が
滅びるのを傍観していては道義心が許さないこと、第二には、百済が唐に侵さ
れてしまうことは、日本への直接の脅威になること、この2点で朝議は一決し
た。[3,p243]
第二の理由である「半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても
脅威だった」との自由社版の一節は、現代にも通用する地政学的な常識だ
鎌倉時代の元寇は、朝鮮半島を手中にした元が朝鮮軍を手先として使って、
我が国に侵略を試みたものである。明治に入ってからの日清戦争は朝鮮を清国
の覇権下から独立させるために行われたものだったし、日露戦争は朝鮮がロシ
アの勢力圏に落ちることを防ぐためだった。戦後の朝鮮戦争も朝鮮全域が共産化
すれば、日本もドミノ倒しになる、という米国の危機感からだった。
坂本太郎博士は[3]において、68歳の女帝が自ら北九州まで軍を率いて
出向いたこと、しかし慣れない旅と風土のせいか、病気にかかり、亡くなって
しまった事実から、こう述べている。
__________
老齢の女帝が遠く九州まで足をのばしたこの事実は、百済救援の問題が、
日本にとって、どんなに重大と考えられたかを示してあまりがある。[3,p244]
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さらに後を継いだ中大兄皇子は大和に帰って母天皇の大喪もできず、また
即位もしないで、皇太子のままで遠征軍の指揮をとった。百済救援が、我が
国の安全保障上、致命的な問題と考えられていたことは、これらの事実からも
容易に窺うことができる。
■4.「九州の博多湾の近くにつくられた軍事用の施設です」
さらに敗戦後に、日本が必死の防衛努力を行った点を見ても、この事が
分かる。自由社版は「白村江の戦いと国防の備え」の後段でこう述べる。
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白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の襲来を恐れた
日本は、九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき)を築いて、国をあげ
て防衛につとめた。また、中大兄皇子は都を飛鳥(あすか)から近江に移し、
即位して天智天皇(てんじてんのう)となった。天皇は国内の改革をさらに進
め、全国的な戸籍をつくった。[1,p56]
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東書版でこれに相当する部分は、次の一文のみである。
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中大兄皇子は、西日本の守りを固め、やがて即位して天智天皇となると、
全国の戸籍をつくるなど、改新の政治を進めました。
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東書版では「半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だっ
た」事を述べず、またここでも「唐と新羅の襲来を恐れた」という点を語ら
ない。これでは多くの中学生たちも、なぜ「西日本の守りを固め」たのか、
分からないだろう。
■5.水城(みずき)を築いた理由
それを述べないのに、なぜか、「大野城と水城」の半頁もの鳥瞰図を載せ
て、九州の博多湾の近くにつくられた軍事用の施設です」と男子生徒に言わ
せ、さらに「対馬につくられた金田城跡」の写真を掲示し、「海上からの攻
撃に備えてつくられた石垣です」と注記している。
水城を「軍事用」と言うのはおかしい。攻撃には何の役にもたたないのだ
から、「防衛用」と言うべきだ。
「日本にとっての脅威」も「「唐と新羅の襲来を恐れた」点も文中では何も
語らずに、大きなスペースを使って、「軍事用の施設」のイラストを使った
理由は何なのか。
好意的に考えれば、中学生たちが半島への出兵も、これらの国防努力も、
「半島が敵対勢力に落ちたら、日本にとっての脅威」であることを、自ら考
えさせよう、という高度な教育的配慮であるのかもしれない。
しかし、疑り深い弊誌は、東書版を使って「日本が朝鮮半島侵略に失敗し
その報復を恐れて、人民に多大な労役をかけて、巨大な軍事用施設まで作らせた。
日本は古代から軍国主義だった」などと勝手に教える偏向教師もいるのではな
いかと、邪推している。
自由社版には現代に残る水城の跡の写真を載せ、こう記している。
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太宰府の守り 九州の玄関口・博多湾に向かって長く続いている緑の帯が
水城の跡。水城は太宰府防衛のために築かれた土塁で、延長約1キロメー
トル、幅が約80メートルあり、内側に水をたたえていた。[1,p56]
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こういう記述なら、中学生たちも当時の日本人の危機感も偲べるだろう。
■6.新羅の「仁義なき戦い」
東書版のもう一つの違いである「新羅は、唐の軍隊を追い出して、朝鮮
半島を統一しました」という点を考えてみよう。
確かに、これは史実である。唐は百済の旧王族を温存して旧百済領を支配
させ、高句麗領は植民地支配をした。新羅はこれを不満として、旧百済領に
武力侵攻する。唐は怒って、新羅王の官位を剥奪するが、新羅は謝罪使を送
りつつ、唐軍との戦闘は継続し、なおかつ日本に使節を送って、接近を図る。
こうした新羅の「仁義なき戦い」に、さしもの唐も音を上げて、半島支配を
諦めて本土に引きあげるのである。[4,p310]
これに比較すべきは、大和朝廷が「300年のよしみのある百済が滅びる
のを傍観していては道義心がゆるさない」事を第一の理由として出兵した姿
勢であろう。
近代日本は日英同盟でも、三国同盟でも、日米同盟でも、相手を裏切った
ことがない。それに対して、新羅の外交姿勢は、今の北朝鮮を彷彿とさせる。
こうした歴史を見れば、外交上の信義をおける国かどうかはすぐ分かるもの
である。
新羅の朝鮮半島統一を言うなら、ここで述べた数行くらいは追加して欲しい
ものだ。それを隠して「唐の軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました」
と自慢するだけでは片手落ちである。
東書版の著者たちには、どうも半島に対する祖国愛を抱いている人が混じっ
ているようだとは、本シリーズで何度も述べてきたが、この一文でもそれを
感じる。
その祖国愛は見上げたものだが、それは韓国か北朝鮮の歴史教科書で発露
すべきもので、日本人のための日本史教科書で他国への祖国愛を裨益されて
は、はなはだ迷惑である。
■7.防人の歌に見る兵士たちの真情
ここで久しぶりに育鵬社版の歴史教科書に登場してもらおう。自由社版に
もない、優れた内容があるからだ。万葉集に収められた防人(さきもり)の歌
の紹介である[5,39]。防人とは、敗戦後、大陸からの襲来に備えて九州に太
宰府が設けられ、そこに配置された東国の兵士たちである。
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父母が 頭(かしら)掻(か)き撫(な)で 幸(さ)くあれて
言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
(出発するとき私の頭をかきなで「元気でな」と言った父母の言葉が忘れら
れない)
水鳥の 立ちの急ぎに 父母に
物言(は)ず来(け)にて 今ぞ悔しき
(水鳥が飛び立つようにあわただしく旅立ってきたので、父母に別れの言葉
を言うこともできなかった。それが今となって悔やまれる。)
葦垣(あしがき)の 隈所(くまど)に立ちて 吾妹子(わぎもこ)が
袖(そで)もしほほに 泣きしそ思(も)はゆ
(私が旅立つとき、葦の垣根のすみに立って、袖もぐっしょりとなるほど泣
いていた妻のことが思われてならない)
唐衣(からころも) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして
(私の服の裾にとりついて「行かないで」と泣いた子どもたちを置いてきて
しまった。あの子らは母もいないのに)
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現代なら、軍国主義に対する反戦歌などと教える教師もいよう。しかし、
ここには自分を防人として徴用した国家への恨み辛みは微塵も感じられない。
ただただ公の任務に立つ際の肉親を思う真情が溢れている。先の大戦での特
攻隊諸士の真情と同じである。[c]
国家の最初の公的な歌集に、こういう名もなき兵士の真情の籠もった歌を
多く取り上げて、共感を寄せた所に我が国の国柄がある。唐や新羅の兵士も
同様な真情を抱いただろうが、彼らの思いは後世に伝えられたのだろうか。
■8.愛国の人
もう一つ、教科書には登場しないが、ぜひ中学生たちに授業の中で紹介し
て貰いたい逸話がある。
白村江の戦いで捕虜になり、長安に連行された兵士の中に、大伴部博麻
(おおともべのはかま)という若者がいた。日本書紀によれば、現在の福岡
県八女市上陽町から出兵した一人である。
博麻は捕虜生活中に、日本征服を企む唐の計画を耳にする。この情報を
祖国に知らせようと、博麻は自分を奴隷として売って金を作り、それを捕虜
仲間に渡して船を調達させ、帰国させる。彼らのもたらした情報をもとに、
水城などの防衛施設が構築された。
博麻はそれから28年後に奇跡的に帰国できた。時の持統天皇は博麻に
異例の勅語を賜った。その一節に「朕(ちん)、厥(そ)の朝を尊び国を
愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉(よろこ)ぶ」とあり、
これが「愛国」という言葉が我が国の歴史に登場した最初の例であったという。
肉親との別れを悲しみながらも祖国防衛のために遠地に向かった防人、
自らの身を奴隷として売ってまで祖国に危急を知らせた博麻、さらには
68歳の老身に鞭打って九州まで出陣した女帝・舒明天皇、母の崩御に
悲しむ余裕もなく半島遠征と敗戦後の国土防衛に打ち込んだ中大兄皇子。
そうした人々の心の内に思いを馳せることが、未来の国民を育てるための
歴史教育なのである。
(文責:伊勢雅臣)
大伴部博麻の話は泣けます。(仁)